文化財 《史跡 西海地区・崎戸地区》

2011年8月29日


南蛮船来航の地 (県指定) 指定年月日:1941年(昭和16年)1月17日

南蛮船来航の地
所在地 西海町横瀬郷字町ノ辻4108番地 地 図
文化財の概要

永禄5年(1562)、横瀬浦は南蛮貿易港として開港された。ポルトガル船とともに入港する商人たちは関税を10年間免除され、港には司祭の許可なく異教徒が住むことは許されず、港の周囲2レグア(1レグアは、約5.5km)の半分を教会が所有するものと定められた。横瀬浦には、教会が建設され、キリスト教徒や商人たちが集まり、港は繁栄したと伝わる。

永禄6年(1563)には、領主であった大村純忠がこの地の教会で洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となった。しかしながら、同年に反純忠派勢力の襲撃で横瀬浦は焼失し、後に南蛮貿易港は福田そして長崎へと移った。


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中浦ジュリアン出生の地 (県指定) 指定年月日:1968年(昭和43年)4月23日

中浦ジュリアン出生地・遠景
中浦ジュリアン出生地・記念像
所在地 西海町中浦南郷字御園2048番地 地 図
文化財の概要

西海市西海町中浦南郷の「(たち)」と呼ばれる指定地が、天正遣欧使節の一員であった中浦ジュリアンの出生の地と考えられている。

中浦ジュリアンは有馬のセミナリヨ(神学校)で学び、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノらとともに使節に選ばれた。天正10年(1582)にヨーロッパへと海を渡り、諸国で歓待を受け、ローマ教皇との謁見を果たした。帰国後の天正19年(1591)、京都の楽第(じゅらくだい)にて豊臣秀吉に謁見した際、西洋音楽を披露した。その後イエズス会に入会し、マカオで学んだ後、禁教下の日本で布教活動を行なったが捕らえられ、寛永10年(1633)に長崎の西坂で殉教した。


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船番所跡 (市指定) 指定年月日:1980年(昭和55年)2月25日

船番所跡
所在地 西海町横瀬郷68番地2 地 図
文化財の概要

正徳4年(1714)に長崎奉行大岡備前守清相の指示で、大村藩第6代藩主純庸の代に設置された寄船番所の跡。平戸藩領の高後崎(こうごさき)と相対し、佐世保湾の入口に位置する。

当時は清国から来航する唐船の密貿易が横行しており、その監視が主な目的であった。正徳5年(171573日に甲野治部大夫に定番が命じられて以後は代々甲野家が定番を勤めた。諸外国との緊張が高まった安政5年(18584月には、石火矢2挺が配備されている。『郷村記』の「横瀬浦村」には番所の設置に関する記事がある。


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面高唐人墓 (市指定) 指定年月日:1980年(昭和55年)2月25日

面高唐人墓
所在地 西海町面高郷字塔ノ尾1736番地 地 図
文化財の概要

面高郷で「唐人墓」と呼ばれる五輪塔。地輪、水輪(下から23段目)の2点が安山岩質凝灰岩、その他の風・空輪、火輪、水輪、地輪の4点が関西方面産の花崗岩と推定され、2基分の五輪塔が1基として積み上げられている。

花崗岩製搭は法量から1基分の完形で14世紀後半から15世紀前半、安山岩質凝灰岩製搭は16世紀後半から17世紀前半の製作と考えられている。本地域と中央(関西方面)との交流を示す石造物である。


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天久保遺跡 (市指定) 指定年月日:1980年(昭和55年)2月25日 (H.13.6.1 再指定)

天久保遺跡・貝塚 天久保遺跡・案内板
天久保遺跡・史跡墓1号 天久保遺跡・史跡墓2号
所在地 西海市西海町天久保郷 地 図
文化財の概要

天久保遺跡は、貝殻が多く散乱しているため、地元では「貝殻畑」とも呼ばれている。遺跡は貝塚、支石(しせきぼ)石棺(せっかんぼ)からなる。貝塚より出土した遺物は、縄文晩期から弥生前期・中期までを中心とする貝殻、魚骨、鯨骨、獣骨などである。支石墓や石棺墓周辺の遺物は大別すると、土器、石器、骨角器の3種。土器では縄文晩期の目突帯(きざみめとったいもん)土器、朝鮮系無文土器の小破片が出土している。石器では、黒曜石の剥片(はくへん)、玄武岩の(せきふ)(みがきいし)、結晶片岩の石皿などが出土している。角器ではサメ歯のやじりと思われるもの、アワビ貝製の刃器が出土している。遺構として、支石墓3基(完全なものは2基)、石棺6基が確認されている。また、支石墓の下の箱式石棺から15個の(くだたま)が発見されている。古墳時代よりも古い時代に10個以上のが出土した例は全国でも珍しい。


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ケイマンゴー遺跡 (市指定) 指定年月日:2001(平成13)年6月1日

ケイマンゴー遺跡
所在地 西海町横瀬郷字中里2077-1ほか 地 図
文化財の概要

縄文時代晩期(約2,500年前)の遺跡である。昭和53年(1978)の石油備蓄基地計画にともなう約1,000m2の発掘調査により、縄文晩期の石器、土器、カメ棺などの遺物が出土した。また、少量ながら旧石器時代の遺物であるナイフ型石器も出土している。現在、遺跡は埋め戻され、畑地となっている。


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太田和氏館跡 (市指定) 指定年月日:2007(平成19)年3月30日

太田和氏館跡・土塁
所在地 西海町太田和郷1055番地 地 図
文化財の概要

『郷村記』によれば、太田和村は(現在の西海市西海町太田和郷)は、太田和(大多和とも記される)氏が領有していたが豊臣秀吉による慶長の役の時に没収となった。太田和氏の居館跡と考えられる指定地は、古くから「(たち)」と呼ばれていた。『郷村記』には「館屋敷」として「四方に少しの土居あり、(中略)卯の方に當り本尾に横三間、竪九間程の堀切あり」との記事があり、現在もほぼ等しい遺構が残る。敷地を囲う楕円形の土塁が特徴的である。


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西海市の鯨組史跡群(鯨納屋場跡) (市指定) 指定年月日:2007(平成19)年3月30日

鯨納屋場跡
所在地 崎戸町江島5-2 地 図
文化財の概要

『郷村記』の江島村に「鯨組之事」として「納屋場(なやば)干切と云處にあり」とある。納屋場とは、主に鯨の解体・加工を行う作業場のことである。

深澤組は江戸時代に西海捕鯨の先駆として活躍した鯨組である。深澤組の祖儀太夫勝清は、元の名を浅井太郎左衛門といい、紀伊国の太地浦(現在の和歌山県東牟婁郡(ひがしむろぐん)太地町(たいじちょう))で、集団で鯨を追跡して銛を打ち、弱らせた後、剣(鉾)で突き殺す突取捕鯨法を学んだ。勝清は、五島灘を魚場に鯨組の操業を始め、慶安3年(1650)には、大村藩に融寺(えんゆうじ)建立の御用金を献上している。また、寛文元年(1661)には野岳に堤を築き新田開発にも力を注いだ。深澤の姓は、大村藩への貢献が認められ藩主大村純長(すみなが)から賜ったものである。深澤組は、大村藩領の平島、江島、蠣浦島、松島を根拠地として栄えた。江島の鯨組は平島の川野七郎右衛門の請浦であったが、明暦2年(1656)、勝清を継いだ2代目儀太夫勝幸が大村藩から江島での操業を許されている。

現在、指定地には井戸が残る。井戸口は約35cmの高さに石を3段に重ね、約150cm四方の方形に組まれている。

 

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お問い合わせ

教育委員会
社会教育課 文化スポーツ班
電話:0959-37-0079
ファクシミリ:0959-2-9011