文化財 《史跡 西彼地区》

2011年8月29日


西彼町のキリシタン墓碑(2基 (県指定) 指定年月日:1972(昭和47)年8月15日

平原キリシタン墓碑
所在地 西彼町平原郷山口原1271番地 地 図
文化財の概要

平原の相川家の祖、相川由左衛門尉(あいかわかげゆざえもんじょう)義武(よしたけ)は朝鮮出兵の後に形上(現在の長崎市琴海形神町)に住んでいたが、2代藤左衛門の時、平原に移住した。この墓碑は、時期は明確でないものの、形上から平原に移されてきたものであるらしい。

 文化財に指定されている2基のうち、1基は、緑色片岩製で墓碑面中央に十字(はなじゅうじ)の紋があり、その上に「◆I◆N◆R◆I◆」と刻まれている。INRIとは“Jesus Nazarenus Rex Judaeorum(ユダヤの王、ナザレのイエズス)”の意を表す。その背後の結晶片岩製1基は、石棺蓋石と考えられ、裏面に「慶長十八年七月一日」と刻まれている。西彼杵半島におけるキリシタン墓碑として貴重なものである。


このページの先頭に戻る

白栄山泉淨寺跡 (市指定) 指定年月日:1971(昭和46)年9月30日

白栄山泉淨寺跡
所在地 西彼町中山郷2602番地2 地 図
文化財の概要

泉浄寺は鎌倉末から室町にかけて建立されたという真言宗の寺院である。「白栄山泉浄寺跡」として西海市の史跡に指定されている。永禄年間(15581569)まで、この一帯の信仰の中心であったと考えられている。

昭和50年(1975)頃、指定地付近を流れる中山川の改修工事の際に、泥土の中や川底から緑色片岩の石造物が多数発見された。これらは大村純忠のキリスト教改宗政策による投棄破壊を示すものと推測されている。


このページの先頭に戻る


四本堂と御茶の水 (市指定) 指定年月日:1971(昭和46)年9月30日

四本堂・御腰懸石
四本堂・御腰懸石
お茶ノ水
お茶ノ水
所在地 西彼町白崎郷574ほか 地 図
文化財の概要

郷村記』の「大串村之内下岳村」の「腰懸石之事附御茶の水之事」は正暦5年(994)、大村家の祖、藤原純友の孫直澄が肥前国藤津、高来、彼杵の三郡を朝廷より賜り、伊予国大洲より海路移った折、陸に上り、鎧を着け、この地にある一間(約1.82m)四方の石に腰掛けたとし、村民を案内者として大村湾の寺島に上陸したと記す。この「腰懸石」の四方には4本の石柱があり、これは『郷村記』の記事と一致する。この腰懸石の西南約200mの湧水は『郷村記』にある「御茶の水」と考えられている。直澄が上陸した時、この水を汲み、茶を供したということであろう。

近年の研究では、元永2年(1119)に平正盛の追討を受けた藤津荘の荘官平清澄の子直澄を大村家の祖であり、藤原直澄の伊予国大洲からの入国は後世の創作と指摘されている。大村藩は、寛政年間(17891801)にそれぞれ「腰懸石」「御茶の水」と刻字した石柱を立て、掃除人を置き、神酒料を与えている。江戸時代の寛永・寛政年間には、徳川幕府によって大名家の系図編纂がなされており、この措置は藤原純友の孫直澄を祖とする大村藩の系譜・系図の裏付けを図ったものと考えられる。


このページの先頭に戻る


大串金山跡 (市指定) 指定年月日:1971(昭和46)年9月30日

大串金山跡 大串金山跡
所在地 西海市西彼町喰場郷、鳥加郷、大串郷 地 図  
文化財の概要

大串金山は、西海市西彼町喰場郷、鳥加郷、大串郷周辺で採掘された金鉱山の総称である。喰場郷字中ノ島には高さ1.7m、幅0.7m、奥行150m余の坑道を含め3箇所、鳥加郷では字金山・コウモリ谷・平島・湧上リの海辺に坑口が残る。大串郷では、坑口はほとんど塞がれている。

大串金山については『郷村記』『大村見聞集』に記事があり、寛永4年(1627)から約40年間が最盛期で、寛永89月に大村藩は産出した金約7933匁(約30キログラム)、銀約70480目(260キログラム)を江戸城西丸御納戸衆へ納めている。大串金山では石英採掘による山金と石英が風化崩壊して海岸に集積した砂金とが採取された。この地域では、江戸時代以後も昭和に至るまで断続的に金の採掘が続けられた。


このページの先頭に戻る


伊ノ浦台場跡 (市指定) 指定年月日:1971(昭和46)年9月30日

伊ノ浦台場跡
所在地 西彼町小迎郷・伊ノ浦郷 地 図
文化財の概要

「台場」とは、要害の地に土・石で築いて大砲を据えつけた砲台である。大村藩第12代藩主純煕の事績を記した『台山公事蹟』に大村湾の入口の海峡、伊ノ浦の岸の上に新しく三箇所の台場を築き、それぞれ十八封度(ポンド)、二十四封度の大砲を備え、その土地の砲兵に管理させた、との記事がある。大村藩の藩政記録『九葉実録』元治元年(1864221日条に、大村藩は外海に7箇所の台場を設けていたが、外国船の標的となるため、瀬戸村の2箇所を除いて廃止し、外海(五島灘)と内海(大村湾)間の要地である伊ノ浦への砲台新設を幕府に申請した記事がある。また、同年428日条には、川内浦村の村医金森有慶が砲台建築資金献上の功績で耕地一反を与えられている。

この台場設置は、生麦事件が原因でイギリス艦隊と薩摩藩が鹿児島沖で交戦した薩英戦争、長州藩の外国船砲撃の報復措置として発生した下関事件など、諸外国との緊張関係の高まりがその背景にあったと考えられる。

3箇所の台場のうち、第1台場は、西彼町小迎郷字双川谷(西海橋の橋脚付近)に高さ約5mの石垣が残る。第2台場は、西彼町伊ノ浦郷字汐見(弁天島対岸の丘)に、第3台場は、西彼町伊ノ浦郷字伊ノ浦にあったと推測されている。


このページの先頭に戻る


志田三郎の墓 (市指定) 指定年月日:1994(平成6)年12月12日

所在地 西彼町八木原郷
文化財の概要

志田三郎は八木原氏に仕え、刎木(はねぎ)城を拠点にした人物と考えられており、西彼町八木原郷のほかに、長崎市琴海長浦町、西海市西彼町中山郷及び亀浦郷などに伝承がある。

『郷村記』の「八木原村」に刎木城主として志田三郎儀憲の墓の記事がある。それによれば、1間(約1.82m4方の塚の周辺に温石の石塔が数多くあり、そのうちの一塔に「在志趣者三從公禪尼、應仁三天巳(丑)二月彼岸中日」との刻字があるとする。

平成8年、志田三郎をまつる祠の改修工事中に、康正4年(1463)と上記『郷村記』の記事にある応仁3年(1469)の紀年銘がある2基を含む、五輪塔や宝篋印塔の基礎部分計37基が発見された。その中の五輪塔の地輪に「海夫」「道浦」の陰刻がある。「海夫」とは平安時代以降、漁労・運搬を生業とした海民を指し家船(えぶね)の後裔ともいわれ、西彼杵半島で製作された滑石製石鍋の広域的運搬への関わりが推測されている。本市の中世史を考えるうえで重要な史跡である。


このページの先頭に戻る

岩永和泉守忠茂の墓 (市指定) 指定年月日:2008(平成20)年3月27日

 
所在地 西彼町喰場郷1044番地1 地 図  
文化財の概要

岩永和泉守忠茂は、有馬氏の勢力下で肥前国鹿島(現在の佐賀県鹿島市)の「鷲巣城」を領有していた。天正9年(1581)、龍造寺隆信の攻撃で鷲巣城を失った忠茂は、大村家に身を寄せ、彼杵村に食録70石を与えられた。忠茂は西海市西彼町喰場郷に「鳥巣城」を築いたといわれる。後に、岩永家は現在の西彼町白似田郷元越に移り、さらに西海町太田和郷に移った。忠茂は長男の久右衛門前忠を大村家に仕官させ、それ以後、子孫は明治維新まで大村氏に仕えた。『郷村記』によれば、指定地のここ西彼町喰場郷の中ノ島は、大村藩第2代藩主純頼から前忠に与えられた地であるという。

この指定地には、中央に五輪塔一基、その正面には、平石を囲む石灯籠4基、その周囲に数基の墓石がある。五輪塔と石灯籠は、『郷村記』の下岳村の「古廟之事」に記事がある。五輪塔には、「妙」「法」「蓮」「華」「経」と刻字があり、岩永和泉守忠茂の墓と考えられている。『郷村記』は4基の石灯籠の寄進者を「岩永久右衛門」、「針尾四郎左衛門」、「冨永次左衛門」、「横瀬惣左衛門」と記すが、刻字は風化が進み、判読困難で、4基のうち2基は火袋を欠く。岩永家では、この地を先祖の墓所として代々供養を行ってきたという。

お問い合わせ

教育委員会
社会教育課 文化スポーツ班
電話:0959-37-0079
ファクシミリ:0959-22-9011