文化財 《史跡 大瀬戸地区》

2011年8月29日


ホゲット石鍋製作遺跡 (国指定) 指定年月日:1981(昭和56)年9月8日

ホゲット石鍋製作遺跡(第6工房)
所在地 大瀬戸町瀬戸羽出川郷字ドンクウ岩 地 図
文化財の概要

 石鍋(いしなべ)とは、軟質で加工しやすく保温性に優れた鉱物である滑石(かっせき)を素材とした容器で、古代から中世にかけて煮炊きに使用された道具である。西彼杵半島を中心として製作された石鍋は、本州から南西諸島まで広範囲に流通したと考えられている。

 西彼杵半島の山中には滑石の露頭(ろとう)が多く、現在70箇所を超える石鍋製作遺跡が確認されている。そのうち、最大規模のものがホゲット石鍋製作遺跡で、11を数える石鍋製作遺跡が集中し、第6石鍋製作遺跡では、高さ約6m、幅約60mの滑石の壁面に、石鍋の製作途中のものや削り取った窪みが数多く見られ壮観である。


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多以良の小佐々氏墓所 (県指定) 指定年月日:1990(平成2)年11月16日

小佐々氏墓所
所在地 大瀬戸町多以良郷字寺山2184番地 地 図
文化財の概要  小佐々(こざさ)氏は多以良を本拠とし、西彼杵半島北部外海地域から五島灘の島々を支配していたといわれる。のちに大村家のもと、中浦・七釜・多以良などを知行した。幕藩体制が確立されるにつれ、大村城下の家臣団に組み込まれていったが、多以良村は江戸時代の終わりまで小佐々氏の知行地であった。『郷村記』の多以良村の「古廟之事」に「小佐々先祖墓」として切石の平塚、切石の墓が2つ、大小墓が2つ、石灯籠が2基あるとして、その形状とともに記されており、現存する墓石、石灯籠の形状とほぼ一致している。


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目一坊(メヒトツボウ)石鍋製作所遺跡群 (市指定) 指定年月日:1997(平成9)年1月23日

目一坊石鍋製作所跡遺跡群 目一坊石鍋製作所跡遺跡群
所在地 大瀬戸町雪浦河通郷429番地1ほか 地 図
文化財の概要

 目一坊石鍋製作所遺跡群は大瀬戸町雪浦河通郷の標高約330mの峻険な山塊(春山と呼ばれる)にある。

 河通川の渓谷を臨むこの周辺には、竪穴などの洞窟が点在し、その内部には石鍋を剥離した痕跡が見られ、付近には製作途中で放棄されたと考えられる石鍋が散在している。山塊東寄りの急斜面には方眼状に区画したうえで石鍋を剥離した痕跡が残る。


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小田貝塚遺跡 (市指定) 指定年月日:2001(平成13)年2月5日

小田貝塚遺跡
所在地 大瀬戸町雪浦上郷654番地および656番地3 地 図
文化財の概要

雪浦川の支流である河通川と小田川との合流点に位置する。大正13年(1924)、長崎考古学会員を中心とする調査団により発掘調査された。(いしぞく)(せきふ)、土器、人骨が出土している。平成6年(1994)、長崎県教育委員会による調査が行われ、平成12年(2000)、旧大瀬戸町によって公園化されている。


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西海市の鯨組史跡群(市杵島神社、通称:宮島神社) (市指定) 指定年月日:2007(平成19)年3月30日

市杵島神社/鳥居
所在地 西海市大瀬戸町松島外郷 地 図
文化財の概要

 杵島(いちきしま)神社杵島(いちきしまひめのみこと)を祭神とする神社である。市杵島姫命は、海の神・水の神として仏教の弁財天(べんざいてん)(しゅうごう)し、各地で信仰の対象となった。広島県の厳島神社の主祭神でもある。この神社は『郷村記』の松島村に、「西泊宮島弁財天」として紹介されている。

『郷村記』には、寛保2年(174268日、深澤與五郎幸曹が鳥居一門を再建した、とある。現存する鳥居の柱の刻文は、この記事と一致する。この市杵島神社がある島は深澤儀太夫が安芸の宮島(厳島)の土をこの地に納め、境内を普請し、弁財天を奉ったことから、「宮島」と称するようになったと伝えられる。

鳥居を再建した深澤與五郎幸曹は、元禄8年(1695)、この松島の西泊(夏居の浦)を拠点に鯨組を創始した松島深澤組の3代目である。寛政4年(1792)、幸曹の死去とともに松島の鯨組は操業を終えた。その墓は松島正定院(しょうじょういん)の深澤家先祖墓地にある。


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西海市の鯨組史跡群(深澤與五郎幸可の墓) (市指定) 指定年月日:2007(平成19)年3月30日

深澤與五郎幸可の墓
所在地 西海市大瀬戸町松島外郷 地 図
文化財の概要

 松島で鯨組を始めた深澤與五郎幸可は、今井源太左衛門勝直の2男で深澤組の2代目儀太夫勝幸の養子である。元禄7年(1694)に、この西泊(夏居の浦)に居宅を構え、翌年に平島から移住して捕鯨業を家業とした。田嶋助次郎、のちに與五郎と名乗っていたが、正徳5年(17156月に藩主大村純庸から深澤の姓を賜っている。松島深澤組の捕鯨は、寛政4年(1792)、幸可から3代目深澤與五郎幸曹の死去とともに終わり、文政2年(1819)、中橋才右衛門の代には西泊から大村城下に転居した。

幸可の高さ約3mにおよぶ大墓碑は、捕鯨による利益で巨万の富を築いた当時の栄華を偲ばせている。


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松島炭鉱第4坑跡 (県指定) 指定年月日:2015(平成27)年2月19日

松島炭鉱第4坑跡
所在地 大瀬戸町松島外郷634番地1他 地 図
文化財の概要

 松島の石炭採掘は、江戸時代の天明元年(1781)に松島の北に位置する串島で採取が最初とされている。その後も事業者を変えつつも採掘は続き、大正3年(1914年)4月9日から松島炭鉱株式会社が松島村外浦の第4坑第1竪坑の開削に着手した。

  文化財指定地である第4坑の坑口は、五島灘を望む松島南西部の標高約28mの地点に位置し、坑口直下約96mに5尺炭層、約120mに3尺炭層、約130mに4尺炭層が存在する。   

 指定地には当時から使用されていた変電所跡(写真左)の他に第2竪坑の捲揚機庫(同中央)、守衛室(同右)なども保存されている。

 昭和9年(1934年)11月25日、この第4坑坑内で出水事故が発生し、54名が犠牲となった。この事故が原因で、松島炭鉱株式会社は、翌年の昭和10年(1935年)に松島鉱区を放棄し、三井と共同で大島鉱区を開坑して再起を図ることになるが、松島炭鉱株式会社を創業した大正2年(1913年)から、松島での採炭を終えた昭和11(1934)までの24年間の総出炭量は約870万トンに上り、関係する坑口は5箇所あったようであるが、この第4坑が残存する唯一の坑口と考えられる。


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お問い合わせ

教育委員会
社会教育課 文化スポーツ班
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ファクシミリ:0959-22-9011