県指定文化財

県指定史跡 西彼町のキリシタン墓碑(2基)

西彼町のキリシタン墓碑

指定年月日:昭和47年8月15日

所在地:西海市西彼町平原郷1271番地

平原の相川家の祖、相川勘解由左衛門尉(あいかわかげゆざえもんじょう)義武(よしたけ)は朝鮮出兵の後に形上(現在の長崎市琴海形上町)に住んでいたが、2代藤左衛門の時、平原に移住した。この墓碑は、時期は明確でないものの、形上から平原に移されてきたものであるらしい。

文化財に指定されている2基のうち、1基は、緑色片岩製で墓碑面中央に花十字(はなじゅうじ)の紋が下の添付ファイル参照のとおり刻まれている。INRIとは“Jesus Nazarenus Rex Judaeorum(ユダヤの王、ナザレのイエズス)”の意を表す。その背後の結晶片岩製の1基は、石棺蓋石と考えられ、裏面に「慶長十八年七月一日」と刻まれている。西彼杵半島におけるキリシタン墓碑として貴重なものである。

西彼町のキリシタン墓碑(JPEG:208.9KB)

 

県指定有形民俗文化財 西彼杵半島猪垣基点

西彼杵半島猪垣基点

指定年月日:昭和43年4月23日

所在地:西海市西海町中浦北郷197番地

猪垣(ししがき)とは、猪や鹿などの食害から田畑を守るため築かれた石垣である。

文化財に指定されている玄武岩の基点石には「享保七🔳寅年」(1文字は約10センチ角。🔳は剥げ落ちて解読できない部分)と2行にわたる刻字がある。『郷村記』の中浦村の猪垣についての記事を意訳すると「外海の山に猪や鹿が繁殖して田畑の作物を荒らすので、村中の人々が協議して享保7年(1722)6月から石垣を築いた。この工事が達成すると、荒れた野原で田畑が余る程、出来上がるはずで、中浦村から工事を始めたところ、順を追って太田和、七ツ釜、多以良、瀬戸でも同様に工事がなされた。」となる。享保7年(1722)に工事が始められたという内容は、基点石の刻字と一致する。

昭和51年(1976)の長崎県教育委員会による調査で猪垣は西彼杵半島の山地をほぼ一周するように築かれたことが判明している。猪垣の石材には、この基点石周辺では玄武岩(げんぶがん)が使用されているが、その他の所では結晶片岩(けっしょうへんがん)が主である。

県指定史跡 南蛮船来航の地

南蛮船来航の地

指定年月日:昭和16年1月17日

所在地:西海市西海町横瀬郷4108番地

永禄5年(1562)、横瀬浦は南蛮貿易港として開港された。ポルトガル船とともに入港する商人たちは関税を10年間免除され、港には司祭の許可なく異教徒が住むことは許されず、港の周囲2レグア(1レグアは、約5.5キロメートル)の半分を教会が所有するものと定められた。横瀬浦には、教会が建設され、キリスト教徒や商人たちが集まり、港は繁栄したと伝わる。

永禄6年(1563)には、領主であった大村純忠がこの地の教会で洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となった。しかしながら、同年に反純忠派勢力の襲撃で横瀬浦は焼失し、後に南蛮貿易港は福田そして長崎へと移った。

県指定史跡 中浦ジュリアン出生の地

中浦ジュリアン出生の地

指定年月日:昭和43年4月23日

所在地:西海市西海町中浦南郷2048番地

西海市西海町中浦南郷の「館(たち)」と呼ばれる指定地が、天正遣欧使節の一員であった中浦ジュリアンの出生の地と考えられている。

中浦ジュリアンは有馬のセミナリヨ(神学校)で学び、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノらとともに使節に選ばれた。天正10年(1582)にヨーロッパへと海を渡り、諸国で歓待を受け、ローマ教皇との謁見を果たした。帰国後の天正19年(1591)、京都の聚楽第(じゅらくだい)にて豊臣秀吉に謁見した際、西洋音楽を披露した。その後イエズス会に入会し、マカオで学んだ後、禁教下の日本で布教活動を行なったが捕らえられ、寛永10年(1633)に長崎の西坂で殉教した。

県指定無形民俗文化財 平島のナーマイドー

平島のナーマイドー

指定年月日:平成15年3月25日

所在地:西海市崎戸町平島

江戸時代、平島の淨専寺(じょうせんじ)の僧と庄屋の娘が心中した。ナーマイドーは、その供養と島内の安全を念ずる仏教行事として始まったと伝わる。身を投げたとされる清水観音近くの断崖の下には、2人の冥福のため建立されたと考えられる浄土三部経の一字一石塔がある。一字一石塔とは、小石に経典の文字を1字ずつ書き、それをまとめて埋めた場所に目印として建てる塔である。行事の内容は、清水観音の境内で藁縄を数珠に見立てた大綱となし、行列して、「ナーマイドー(南無阿弥陀仏)」と唱えながら、島内を引き回した後、大綱を海に流す、というものである。もともとは男の子供が担い手の行事であったが、現在は平島ナーマイドー保存会が行事を担い、大人も参加して継承されている。かつては陰暦6月15日に行なわれていたが、現在は7月の「海の日」に行なわれている。

県指定史跡 多以良の小佐々氏墓所

多以良の小佐々氏墓所

指定年月日:平成2年11月16日

所在地:西海市大瀬戸町多以良内郷2184番地

小佐々(こざさ)氏は多以良を本拠とし、西彼杵半島北部外海地域から五島灘の島々を支配していたといわれる。のちに大村家のもと、中浦・七釜・多以良などを知行した。幕藩体制が確立されるにつれ、大村城下の家臣団に組み込まれていったが、多以良村は江戸時代の終わりまで小佐々氏の知行地であった。『郷村記』の多以良村の「古廟之事」に「小佐々先祖墓」として切石の平塚、切石の墓が2つ、大小墓が2つ、石灯籠が2基あるとして、その形状とともに記されており、現存する墓石、石灯籠の形状とほぼ一致している。

県指定史跡 松島炭鉱第4坑跡

松島炭鉱第4坑跡

指定年月日:平成27年2月19日

所在地:西海市大瀬戸町松島外郷634番地1他

松島の石炭採掘は、江戸時代の天明元年(1781)に松島の北に位置する串島で採取が最初とされている。その後も事業者を変えつつも採掘は続き、大正3年(1914年)4月9日から松島炭鉱株式会社が松島村外浦の第4坑第1竪坑の開削に着手した。

指定地には当時使用されていた変電所跡の他に第2竪坑の捲揚機庫、守衛室なども保存されている。

昭和9年(1934年)11月25日、この第4坑坑内で出水事故が発生し、54名が犠牲となった。この事故が原因で、松島炭鉱株式会社は、翌年の昭和10年(1935年)に松島鉱区を放棄し、三井と共同で大島鉱区を開坑して再起を図ることとなった。

県指定天然記念物 大立島の植物群落

大立島の植物群落

指定年月日:平成28年2月18日

所在地:崎戸町江島字大建島2745番第2

大立島は、西彼杵半島と新上五島町の間の五島灘に浮かぶ無人の島で、面積は0.09km2ほどである。島の北部には県内でもまれなスダジイの原生林があり、林内や海岸にはダルマギク、キキョウラン、キイレツチトリモチ、モクタチバナ、キノクニスゲ、コウライシバ、コウシュンシバなどの貴重な植物が多く生育しており、植物の分布上重要な地点として知られる。

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